3.1.11 傷ついた原石ほど 

 

 

 頭に巣くった蛆虫が脳みそをむさぼり食っていて、自分が好きだったものや大事にしていた記憶や感受性を死に至らしめ、目の前の事象に対する感情をとことん薄ら寒いものにしている。自分が何を感じ取っているか、一々自分に対して確認しないことには、上手く自分という存在の骨格を認識できない。


 SNSやポルノ動画に対する反射的興奮に溺れきっている内に心まで電子的な信号に従うようになったのかもしれない。ボクハナニヲカンジテイルノダロウ? ナニヲカンガエテイルノダロウ? 誰かに教えて欲しいが、僕のことをよく知っている人間などこの土地にはいない。孤独に慣れきった人間の末路。青い春はとことん惨めで、大人になってからもまともになれない憂鬱を引き摺っている。とっととリタイアした気持ちで一杯だが、生きていかなければならないという呪いから解放される術を持たない。


 夜よ明けるなと祈りを抱きながら鬼束ちひろを聴いている。『HYSTERIA』正直に言って、彼女の存在は懐かしいものになりつつある。月光、私とワルツを、茨の海……そうした楽曲たちが深くこの皮膚に刻まれた時期もあった。その深い絶望の暗さ、深海に沈んでいくような諦観の心地よさ。そうしたものに囚われ、強く心を惹かれた時期もあった。傷つき、歪に、淀み、そうして輝く原石の美しさ。彼女の歌声の奥底に輝くその光に救われるようにして。


 こうした歌手が未だにアルバムを出し続け、歌い続けてくれているということが一つの救済そのものだ、と僕は思った。ここに収められた楽曲たちはやはり深く傷つき、もがきながらも手探りで生きている人にしか歌えないものばかりだ。喉元を締められているかのような息苦しさ、生そのものが耐えがたいほど辛く、暗い。それでも何かに縋りながら、何かを求めながら生きていく。致死的な腫瘍が日々凝り固まり、大きくなるのを自覚しながらも、生きていかなければならないこの地獄を、歌に希望を託し、生きている。あるいは、僕は自己投影に過ぎるかもしれない。でも、僕はずっと前からその印象に救われ続けている。何もない部屋の床に効かない薬ばかりが散らばり、時には自傷を示唆する刃物がだらりと落ちる腕の傍にある。瓶のコークと、宵を迎える斜陽。彼女の無感動な視線の先には一つのアルバムがあり、手持ち無沙汰にその歌詞をなぞる。


 夜が更け、開けたままのカーテンから朝日が部屋に満ちるとき、とりあえず生き延びている自分を発見するのだ。