3.2.8 百合の飽食時代にあって

 

 

 これだけ「百合」と呼ばれるものがあちこちで散布され、搾取される時代になっていると何が本当の百合なのかわからなくなってくる。もちろんあなたの百合も百合だし、彼女の百合もまた百合なのである。選択的に、属性的に百合が振り分けられるようになって良い時代になったと腕を組むお殿様もいるのかもしれない。だから、これは僕にとっての「百合」とは何か、という日記になる。
 

 最近読んだマンガの中では須藤裕美さんの『包帯少女期間』は圧倒的に百合だった。この百合の飽食時代にあって須藤裕美さんの描く百合は個人的に最も信用している。表題作は特に何かが起こるわけでもない。松葉杖をつくほどの大けがをした同級生と、ひょんなことから一夏を過ごすというのが大筋だ。ミステリティックなこともないし、ロマンチックなことも起こらない。言葉少なく、説明を省き、ささやかな描写を重ねることによってそよ風のような心の揺れを表現している。空気の質感、肌触り。視線、唇の動き。夏の日射しと車椅子。平坦な道なりを歩いていたはずが、気付けばアブノーマルな視界が目の前に広がっている。奈美、なんでだろう……あなたがすごく綺麗……。
 

 個人的にだけれど、百合という滴には短編という器が一番適していると思っている。物語の風呂敷を広げすぎず、説明過多や入り組んだ描写を省き、水の流れがさらりと横道を見付けて気付けば元の道に戻れなくなっているような、そんな転換が映し出されるものが良い。僕にとって百合とはそんな感情の揺らぎのことだ。「それを知ってしまったことによって」今までの自分には戻れなくなり、景色の見え方が少し違って見えるようになる。それは成長と呼ぶには傲慢で、変化と言うにはあっけない。
 

 今まで喋ったこともない、友達でもなかった同級生がひどく特別に見えた瞬間――その刹那に芽生えた感情。多分、その刹那を目撃することを求めて、僕は今日も百合作品を探しているのではないかと思う。