3.5.22 雨降りの休日 しんなりした孤独が染みこんで 

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 雨降りの休日に新しいダイニングテーブルを買った。これが思いのほか大きくて、一目惚れして買った独りがけソファの座高にあっていない。家具を買うとよくこういう過ちを繰り返す(学ばない)。まぁいいかと思いながら、やっぱり失敗だったかな……元のこたつ用テーブルに戻そうかななんてことをくよくよ考えている。
 

 小説の進みが遅い。読むのも遅ければ書くのも遅い。いま読んでいるのはカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』という小説で、聾唖の男が中心となって物語が動いていく、というより人々の生活が映し出される小説だ。等身大の苦悩と社会的不平等や抑圧が登場人物に激情をもたらしながらも、暖かな眼差しによって穏やかに描き出される。これを書いたときの作者の年齢が23歳というのだから鬱になる。多面的な心理描写を重ねながら、人生のあらゆる転換期、あらゆる社会的事実に登場人物をくぐらせ、変化を描き出す。人々の心に寄り添う同情心……きっと小説を書く上で一番必要なことはその視点、眼差しなのだ。僕はその視点を失っているように思えてならない。あるいはそれは、人間にとって最も大切なものなんじゃないか?

 書いているものは『いずれ私たちが雨を選ぶように』で、前々から書きたいと思っていたものだった。しかし、どうやら私は仕事終わりの平日にこつこつと書き続けられるタイプじゃないようで、休日にまとめ書きするスタイルでしばらくやっていたが、ただやはり週二日しかないこの休日、全てをそこに費やせる気力や情熱がない。すぐ他のことに目がいって、ノルマを達成できないまま一日が終わってしまう。ノルマを達成できないと、自分が人間としてものすごく欠陥品で、人と同じようにできなくて、子供じみた――俗にいうアダルトチルドレンなんだという自己憐憫がわんわん湧いてきて、死んだほうがマシだと独り言を言う羽目になる。やれやれ小説なんて書かない方がいいんじゃないか? まぁ、他にやりたいことが特にあるわけじゃないのだ。
 

 雨の空気と共に孤独を啄む。ひやりとして味がない。こんなことを生まれてからずっと続けているような気がしてしまう。

3.5.23 路地裏でキラリと光る宝石の欠片のような文章 

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 ポール・オースターの小説は日常の根底を覆すようなストーリー・テリングが多く、村上春樹の井戸的深淵に似たようなところがある。私たちが何の疑いも挟まず信じ込んでいる時間の進み、社会的な規範、揺るがぬ歴史的土台が、物語という非日常的サンプルによって覆され、私たちの心に問いかけを残す。私はそれを『ダンス・ダンス・ダンス』や、『ねじまき鳥クロニカル』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に見た。しかし、今日はポール・オースターについて(便宜的に『オラクル・ナイト』を取り上げて)綴りたい。
 

 私の文学的両親は上述した村上春樹の小説にあるせいで(オースターの小説が村上春樹に似ていると思っているせいで)、物語自体の仕掛けや驚きはそれほど大きくなかった。オースターの小説は「私が好きそうな小説」であり、「私の性癖に沿った作品」であるという感覚で読んでいる。私の根本を塗り替えてしまうような作品ではないけれど、オースターの小説には路地裏でキラリと光る宝石の欠片のような文章が随所に散りばめられている。思わずノートにメモしてしまいたくなるような。
 

 『オラクル・ナイト』については掴みから最高だ。長年病気だった主人公が、体力を取り戻すために散歩を始める。初めは十分ほどで息が切れるほどだったが、徐々にそれは一時間に、一時間が二時間になっていく。『肺は空気を求めて喘ぎ、肌はつねに汗にまみれ、私は誰かの夢のなかの登場人物みたいにゆるゆる進みながら、世界が邁進していくのを眺め、自分がかつてこの周りの人々と同じようにふるまっていたことに驚嘆していた。人々はつねに猛然と動き、いつもどこかからどこかへ向かっていて、いつも予定より遅れていて、日が沈む前にあと九つ用事を片付けようと飛び回っていた。私にはもうそういうゲームを演じる力はない。私はいまや欠陥品だった。機能不全のパーツと、神経学上の謎との塊だった。みんなが狂おしく稼いだり散財したりするのを見ても、何ら気を惹かれなかった。面白半分にふたたび煙草を喫いはじめ、エアコンの効いたコーヒーショップで午後半日を潰し、レモネードやグリルドチーズ・サンドを注文して、周りの会話に耳をそばだて、三つの新聞の全記事を一つずつ読み進んでいった。こうして時が過ぎた』
 

 この小説に限らず、ポール・オースターの小説は下手すれば一ページ毎に付箋を付け、後々読み返したくなる文章がたくさんある。それはニューヨークという特殊な土地を舞台にしていることも当然影響しているだろう。夢とガラクタと偽りが入り交じった空気のなか――ゴミ溜めから夜空の星を眺めるように、そこには皮肉と救いが、無関心と愛が、素っ気なさと優しさが絶妙に織り込まれている。ユニークで唯一な文章、そして奇妙に移ろう物語。個人的にポール・オースター村上春樹が同時代作家であるということが偶然が引き起こした一つの謎解きのように思える。

3.3.8 語る言葉も持たず

 人と喋りたいと思わない。というより、人と喋ることが楽しいという価値観を持ち得ない。人と喋っていると余計なことを言ってしまったり、嘘をついているわけではないのに後で思い返すと嘘になっているなということがあったり、面白い返しができないと自己嫌悪に陥ってしまったりととかく面倒くさい。もちろん完全に自己責任というか、そんなに気負う必要ないのにと自分でも思うけれど、そもそも人と話さなければこんな気持ちにはならない。ただ人と話したくない。
 

 でも、世の中の大半の人は喋ることで社会性を向上させてきた人たちだし、コミュニケーションによって社会を発達させてきた類人猿として立派に他人とおしゃべりするし、なんなら悪口陰口という高度な技術を使って共通の仮想敵を作り出し、とりあえずはちゃんとした輪っかを完成させる。真似できない。人を嫌いになることはあるし、いらっとすることもあるけれど、共感を求めたいと思わない。俺が俺で勝手にむかついていればいいのだ。俺以外の誰かにとっては、俺の怒りや苛立ちなんて無関係じゃないか? もちろん、他人様に迷惑をかけないように……でも、この他人様に迷惑をかけないようにってのも暗黙的コミュニケーションの一つなのが嫌だ。何だか自分が誰かに勝手に怒りを抱くことすら許されていないような気がする。嫌なことがあれば共感を求めよ、せねば認めん……そういうことを思うのは俺だけなのだろうか。
 

 「普通」の共感が厄介だ。そこには確実に絶対的なルールが存在している。個人という存在を無視した暗黙的普遍ルール。そんなの俺にわかるわけないよ。

3.1.19 脳みそから酸素が漏れ続けている 

 

 『チェーンソーマン』というマンガが面白い。自分でもこんなタイトルからチェーンソーマンの話をするとは思っていなかった。大体において何かを綴ろうとするとき頭の中で思い描いていたものが(今日でいえば風呂に入っているときに何かしらのテーマを決めていて、あらすじまで完成していたのだが)真っ白なディスプレイを目の前にするとすっかりと忘れてしまって、とりあえずチェ-ンソーマンのことを書いている。というより、チェーンソーマンに付随する個人的なあれこれを。
 

 といっても、いざチェーンソーマンのことを書こうと思うと、一体俺はチェーンソーマンの何を書こうとしているのだろうという気持ちになる。正直に言えば特に書くことがない。問題というのはそのことなのだ。そのマンガが面白いと思う。でも、何が面白いのか言語化できない。そんなことをしなくても面白ければ良いじゃんと思う。でも、そうじゃない。そう言い切るだけの熱意がない。そして、もっと若い頃に――というか学生の頃に出会っていたらバイブル的な、何度も読み返して、個人的なシーンをいつまでも胸に抱えていて、チェーンソーマンと生きていくことになっていただろう。そういう感覚だけが残っていて、だから面白いと思っても素直に楽しめない自分がいる。
 

 急展開、急発進。そして散りばめられたエモーショナル。欠けたガラスの表面が鋭く光るみたいに、時々目を奪われ――失明してしまいたくなるほど魅入ってしまいたくなる場面がコロリと入る。例えばレゼの死に際。あるいは姫野先輩の差し出した煙草。聞こえますかウボーさん。これが俺たちからあなたに向けたレクイエムです……。
 

 おそらく最後まで読み続けるであろうが、いつも気にかかるのはこの心はもうすっかり枯れてしまったのではないかということ。年取ったオタクはただの社会不適合者だ。

3.2.8 百合の飽食時代にあって

 

 

 これだけ「百合」と呼ばれるものがあちこちで散布され、搾取される時代になっていると何が本当の百合なのかわからなくなってくる。もちろんあなたの百合も百合だし、彼女の百合もまた百合なのである。選択的に、属性的に百合が振り分けられるようになって良い時代になったと腕を組むお殿様もいるのかもしれない。だから、これは僕にとっての「百合」とは何か、という日記になる。
 

 最近読んだマンガの中では須藤裕美さんの『包帯少女期間』は圧倒的に百合だった。この百合の飽食時代にあって須藤裕美さんの描く百合は個人的に最も信用している。表題作は特に何かが起こるわけでもない。松葉杖をつくほどの大けがをした同級生と、ひょんなことから一夏を過ごすというのが大筋だ。ミステリティックなこともないし、ロマンチックなことも起こらない。言葉少なく、説明を省き、ささやかな描写を重ねることによってそよ風のような心の揺れを表現している。空気の質感、肌触り。視線、唇の動き。夏の日射しと車椅子。平坦な道なりを歩いていたはずが、気付けばアブノーマルな視界が目の前に広がっている。奈美、なんでだろう……あなたがすごく綺麗……。
 

 個人的にだけれど、百合という滴には短編という器が一番適していると思っている。物語の風呂敷を広げすぎず、説明過多や入り組んだ描写を省き、水の流れがさらりと横道を見付けて気付けば元の道に戻れなくなっているような、そんな転換が映し出されるものが良い。僕にとって百合とはそんな感情の揺らぎのことだ。「それを知ってしまったことによって」今までの自分には戻れなくなり、景色の見え方が少し違って見えるようになる。それは成長と呼ぶには傲慢で、変化と言うにはあっけない。
 

 今まで喋ったこともない、友達でもなかった同級生がひどく特別に見えた瞬間――その刹那に芽生えた感情。多分、その刹那を目撃することを求めて、僕は今日も百合作品を探しているのではないかと思う。

3.1.24 生活の鎮魂歌『スティルライフ』

 

 

 頭の中に留まっていた風景がコマ送りのように流れていく。特別な風景ではない。どこにでもあるような――むしろ単調な風景。窓辺から差し込む朝の日射し。高架橋から見える車の往来。電線越しに映える雲。青い空と、西へ渡っていく鳥の群れ。生活の中に溶け込んでいる風景を拾い出し、そのガラスの表面をそっと日の元に差し出していくような音楽。それが『スティルライフ』。日に当たる側面を変えていくことで、その煌めき方も変化していく。

 

 ピアノ以外の楽器はない。ゆったりとしたリズムに素朴な音色が重なり合っていく。せわしのない日常を弛緩させ、落ち着いた色香を呼び起こさせるように。音楽というインクを垂らし、徐々に色が変わっていく楽しみを思い出させるように。あくる日、ある光。いつかの情景といつまでもそこにあるはずの温もり。空の下にいるだけで享受できるはずのその安らぎ。遠くの雨の音や、誰かと誰かの楽しげな会話……目を閉じ、どこまでも青く広がる空を窓の向こうに眺めながら、ずっと聴いていたくなる音楽。僕はまだ人生を続けている。
 

 紙ジャケット仕様のCDには五つの写真が入っていて、それがまた良い。叙情的で、等身大で、何かを想起させるような風景。それらの風景が一つの記憶を含み、個人的な物語に繋がっている。『音楽で何とか生活できるようになり帰省した際、母のピアノ・レッスン室へ足を運んだ。小学校の校長先生だった祖父は僕が八歳の頃、亡くなった。五月の風と青空をよく覚えている(中略)……丁寧な包みを開けると、祖父が描いたであろう静物画が現れた。持ち帰り、東京の部屋に飾った。それから十年が経ち、僕は静物画という意味の「スティルライフ」というピアノソロ・アルバムを作った(中略)……物語はどこから始まっていたのだろう』
 

 写真の裏にはこのピアニストの記憶が綴られている。物語はどこから始まっていたのだろう。その不可思議性がたまらなく愛しい。

3.3.6 死んだ方がマシなまま生きている

Desperado

Desperado

 日付を書いた時点で思い出したけれど、今日はぼくの誕生日だった。忘れていたわけじゃないけれど、特別な意味はない。26歳の記念すべきこともない誕生日がこんなタイトルなんて、死神に憑かれているとしか思えない。
 

 喋るのが苦手だ。人の顔色を気にしてはいるが、優しさを与える、示すのが難しい。それは優しさですらないから、空っぽなところから何かを出そうとしても何も出てこないのはしょうがないのかもしれない。とことん生きるのが苦手だ。人間らしく振る舞えない。関係を築くのは今となってはキツいことだらけだし、できるだけやり過ごしたいと考えている。何もかもから逃げたい。そのくせまるっきり期待されないとそれはそれでキツい。どうしようもない。努力するつもりもないくせに。
 

 どうやったら生きていたいと思うのだろう? イーグルスの『Despread』で「誰かを愛さなくちゃならない。手遅れになってしまう前に』という歌詞があるけれど、ぼくの心はまるっきり『手遅れになってしまった感』で煮詰まっている。脱却することに本気になれない。中途半端に「これでもいいか」と思いながら、社会不適合者発揮の渦中では常に「死にたい」と考えることで逃げている。もっと単純に、自分の身の丈に合った仕事をしていれば良かったのだが……。辞めればいいのだけれど、本当に。……こういうのってなんか泣きたくなってくる。
 

 頭の中の「まともな大人」がそうやって頭の中でグズグズ考えているだけで何も行動していないじゃないか。自分を正当化しているだけだと行ってくる。そいつから逃れられない。自分の中に一欠片の良心すら残っていないような気がしてくる。あいつはダメだ。普通のこともまともにできない。自分を変えようとも思っていない。期待するだけ無駄。あいつはそういうやつだからただほおっておけ……うん、それでもいい。でも、本当にそれでいいのかはもうよくわからない。
 

 こういう自分を引き摺って丸26年。まともな時代があったような気がする。それは写真の中にしか存在しない。あんな綺麗な目にはもう二度となれない。それは決定的で、それだけが嘘のない真実。


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