3.2.7 本当は少しでも遠くに行きたかったけれど

 本当は少しでも遠くに行きたかったけれど、時勢も時勢なので住んでいるのと同市の飯坂温泉に行くことにした。こういう機会でもなければ逆に訪れることのなかった場所だ。福島市街からほんの十数分車を走らせるだけで到着する。長閑で、ノスタルジックで、寂れている。古びた鉄筋と手放しにされる自然が織り合い、否応のない寂寥感が至る所に染みこんでいる。
 春が来ることを信じてやってもいいような暖かさだった。降り積もった雪はむしろ残雪と呼称するような代物で、水滴に変わった滴がぽたぽたと屋根から落ちて水溜まりを作っている。青空だって久しぶりに垣間見た気がする。普段は憂鬱と恥辱に包まるような会社に沈んでいて、たまの休日もゆっくり空を眺めながら散歩するようなこともない。我ながら悲しい人生を送っているなと思う。恋人もいない。友人も少ない。たぶん、多くの人たちが亡くなるような大きな天災が起きても、僕に個人的なメッセージを送ってくれる人は母親ぐらいなものだろう。僕はツイッターのTLを覗き、とりあえず僕も人間社会の一員としてこの天災に関わっていることを確認する。
 旅に出ていると、自分が孤独であることをより一層痛感する。ふと、僕はほとんど涙を流していないことに思い当たる。涙を流そうとして涙を流したことはあった。白々しい涙。でも、もっと心の底から、悲しみや寂しさで泣いたということはほとんどなかった。唯一思い出せるのは小学校から中学校に移る合間の春休みのことで、僕は突然それまでいたグループからハブられて泣いた。あのときは多分、泣いた。電話をかける友人全てが素っ気ない態度で断ってきて、こんな状態で中学校に上がるのかと怖くもあった。思えばあのときから人間嫌いの中核が出来上がったのだと思う。僕は順当に孤独になっていて、それに慣れていった。人はよく、涙を流せることで強くなれると言う。人間的に出来上がった人が、あのころはよく泣いていたし、トイレで吐いていたこともあったと言う。いやいや、そんなのは御免だよ。泣くくらいなら、吐くくらいなら、目の前の現実からすぐに逃げ出すさ。そんな考えだからいつまでも中途半端な人間のままなのだろうか? 不出来で、人間に向いていない人間のままなのだろうか?
 現実から離れようと思っていたのに、やっぱりこういうことを考えてしまう。まぁ、わりとどこにいってもこういう思いは付きまとうんだけど。もっと遠く、もっと長い期間住んでいる場所から離れられられれば、そういう思いも消えていくのだろうか。仕事を辞めない限り、仕事をしないで生きない限り、おそらく、ない。僕はどうしようもなく僕のままだ。肯定しているわけじゃない。その事実に諦めている、という方が近い。だってどうしようもないじゃないか。エンドロール後も人生は続く。思い通りに行かなくても、夜は必ず明けてしまう。その現実がそもそも地獄だ。
 飯坂温泉のことを書こうと思ったのにどうしてこんな日記になってしまったのだろう。川のせせらぎが朝の空気を打つ。ホテル備え付けのお茶を飲みながら、まぁいいかと独りで納得しよう。どうせただの日記だもの。

3.1.16 感覚の記憶

 

 

 

 昔好きだったものへの熱意が冷めているのはもちろん、新しいものに対しても上手く感情を乗せられなくて困っている。俺ってこういう展開好きだったよな、昔だったらこのシーンだけで何杯も飯食えたはずなんだけどな……何かの作品に触れて面白いとは思うけれど、本当の意味で心を揺さぶられることがない。推せるカップリング、この胸に釘を刺すはずだった言葉たち。全てが隙間風のようにやってきては、気のせいだったのかと思うほどあっという間に過ぎていく。


 こういうのを老いというのかわからない。現在、25歳。『なんで生きてるかわからない人和泉澄』さん状態。感覚の記憶だけはひっしりと残っているからなお厄介だ。あの心の高ぶりだけがリアルで、そのほかのものが全て他人事みたくなっている。追体験のために生き、空疎になった心を自覚するだけの悪循環。どこで誰が死のうと、理不尽な凶悪な事件に世間が踊らされようと、俺の「ここ」にはきっと何も響かないんじゃないかと思ってしまう。だったら真面目に仕事に打ち込めば良いのに。でも、できない。仕事をするようになって思ったことだが、俺は本当に仕事が出来ない。コンビニのアルバイトでもよく失敗をし、ちゃんと反省できず、おんなじ過ちを何回も繰り返していた。そのくせ妙に楽観主義で、適当さを自分で容認していた。屑だ。結局誰かが何とかしてくれるだろうという甘えがある、社会の一員だという意識が全くない。社会不適合者、うつ病患者、ADHD発達障害者。「お好きなものお一つどうぞ」って感じ。身の丈に合った仕事がしたい。もっとシンプルで、人と接する機会が少なくて、猿でも出来るような仕事……まぁ、こんなこと夢想しているようじゃどこに行っても同じだよ、といわれるのもわかる。わかっていながら、現状で頑張る気がないただの屑。もういや。死ぬまで布団にくるまって世間から逃げ続けることに何のためらいもない。飽きたら近所のブランコにでも乗って、世界を揺らす。


 どうやって生きていったら良いかわからない。死に方なんてもっとわからない。


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3.5.25 少女ミックの終わらざるを得ない思春期

 

 

 

 『心は孤独な狩人』では聾唖(耳が不自由で口が効けない)の男、シンガーが中心となり(人々のシンボル的存在となり)物語が進行していく。彼の周りにいる人々は彼に留保のない好意を抱くようになり、拠り所として、自分の心をそっくり預けられる相手として、彼の存在を必要としていく。彼が聾唖で、礼儀正しく、慎み深い微笑みを絶やさないことが自分の心を上手く制御できない――あるいは、過渡期にある人々にとってはとても大切なことだった。これは三人称小説だが、各章でポイントとなる登場人物の視点で語られていく。混沌とした思想と機関銃のような舌をもったジェイク、心の欠落を抱えるブラノン、気高い使命感を持ちながら闇の時代の濃霧を振り払えないコープランド医師、それから非常に微妙な年代を通過しようとしている夢見がちな少女ミック。彼らはスポンジのように自分の言葉を吸収してくれるシンガーに語りかける。あるいはただ傍にいて、彼と同じ空間にいることで安らぎを得る。好意以上の何か。純粋な人間愛。ただ一人の理解者のように彼らはシンガーのことを信頼し、心の奥深くで彼の存在を強く、しかし穏やかに求めているが、最後に彼はとある事情で自殺してしまう(このとある事情については長くなってしまうので書き記せない。といっても、それがこの小説のテーマにあるわけではない)。


 それは多くの失意をもたらし、どうしようもない生活の撤退や変化が訪れることになる。ジェイクはその街を逃げるようにして離れるようになる。ブラノンは自分の普遍性を揺るがされることになるし、コープランド医師は自分のなすべき事をなせずに(後悔を引き摺り)田舎に居を移すことになる。そして少女は少女ではなくなる。


 ミックはシンガーが自殺する直前、重大な決意を下したばかりだった。その夏、彼女は通っている学校を中退して仕事をすることになったのだ。そこには様々な事情があり、家庭は困窮し、楽に夢を見ているだけの子供ではいられなくなっていた。しかし、決して「働かされた」わけではない。求人がふとして湧いた泉のように家族会議に上がり、その中で彼女がその仕事に最も適した人材だった。彼女はある意味でそれを待ち受けていたし、あるいは労働なんて知らぬ少女のままでもいられた。その場の空気や導きがなかったとは言えないが、決して強制されたわけではない。しかし、彼女の口は開いていた。口にしてから退けなくなっただけだ。彼女は迷っていた。迷っていたけれど、働かないという選択肢はなくなっていた。自分の面目のためにも。もちろん、少しは家族の未来のためという建前もある。『ねぇ、聞いて――これから仕事に就くことになると思うの。それをあなたはどう思う? 今学校をドロップアウトして仕事に就くのって、良い考えだと思う? それは正しいことなのかしら?』


 彼女が最後に頼ったのはシンガーだった。彼は頷いた。それから数日して、シンガーが自殺した。


 彼女は仕事帰りにシンガーが勤めていた宝飾店の前を通る。うろうろとして、深夜営業のカフェに入りビールとチョコレート・サンダーを頼む。ストッキングに伝線が入っていたことに気がつき、店員に話しかけられないように爪の手入れに集中している振りをする。そして彼女は行き当たる。最近「内側の部屋」に入れていないことに。そこには勝手気ままに鳴り響く自分だけの音楽があった。彼女の心を鼓舞し、わくわくさせ、彩りを与えていたメロディーたち。彼女はピアノを習いたかった。オーケストラを指揮したかった。いつかは大きな街に出て自分だけの音楽を鳴らしているのだと思っていた。いま、それは鳴らない。いや、いまは鳴らないだけだと思う。私が描いていた夢、未来、その実現のために動くこと。それは意味のあることだと、いままでのことも意味がちゃんとある。だからオーケー、問題ない。私は大丈夫。


 その店員――ブラノンはその姿を見てすでに彼女が少女ではなくなっていることを知る。変化はすでに訪れ、それまでそこにあった何かは過ぎ去ってしまったことを。


 ミックを主人公として読むのであれば、この小説は少し切ない。成長という言葉で片付けられない哀しみややるせなさがそこにはあり、かつて自分にもあったもの、あるいは遠くに押しやられた心象風景を想起させる。忘れているわけではないのに、すでにそこにはない。手を伸ばせば届く距離にあるのに掴むことのできないもの。私が飛ばしたタンポポの種子は導き手を風に変え、いつの間にか私の視界を外れている。

3.5.16 定まらない個人的な生き方

 youtubeなんかで自己啓発関係のチャンネルを流し見していると、初めのうちは自分の生活に取り入れてみようとか実践できそうなものはメモしておこうとか思うのだけれど、だんだんとそのチャンネル数の多さ、終わりのない研究成果の披露、切り取られる尺の短さとその全ての内容が似たり寄ったりしているせいで段々と情報を仕入れることが億劫に、厄介になっていく。元々情報過多の世代に生きているという実感は少ない方だったけれど、これにはさすがに癖癖としないではいられなかった。だって昨日見た自己啓発の内容が今日には別のチャンネルで否定されているんだもの。何を信じればいいのかわからない……なんてことはずいぶん前から言われていることなんだろうけど。


 足りないものばかりが目について、常に心に穴が空いているような、何かを求めても手にした時点でもう興味がなくなっている。例えば家具なんかにしてもそう。テーブルが足りない、掃除機が欲しい、食洗機の置くスペースを確保したい……でも、本当はなくたって構わないのだ。例えば音楽。僕はよくジャケ買いをする。僕は本当にCDをよく買うようになった。でも、学生の頃にTUTAYAで借りてミュージック・プレイヤーにインポートしたアルバムをそれこそ耳にたこができるくらいまで聞き込んだ……というようなことはなくなっている。むしろ僕の中の音楽に対する価値観が安くなっているみたいだ。真に心を動かされるような感動が、今となっては思い出す感覚でしかなくなっている。


 何かを変えようとファッション的に思って、ふらりふらりと実践らしきことをしているようなしていないような毎日。本当は何かを変えようとなんて思っていないのかもしれない。※「なんとなくの寂しさが夜に向かっている」。問題なく夜を寝てやり過ごせるように、何かの成果を求めている。

 

 ※Homecomings「Heart」から。 youtubeで聞いたときから心の中に住まうようになった。そんな感覚も、いまになってわかるようになってきたんだ。


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3.3.7 孤独がしっとりと染みついて

 

 

 

 孤独や憂鬱が友達だ。愛と勇気が友達のアンパンマンと比べたらひどくネガティブな字面だ。でも、しょうがない、僕はヒーローではないのだから。


 でも、ずっと同じ友達とつるんでいると飽きてくるからか、最近は出会い系のアプリをインストールした。月額の課金もした。すでに後悔している。課金してすぐメッセージ等が来なくなった。そもそも自分の写真をメインに使うなんて怖くてできない。でも課金した手前何も変わりがないのも嫌だからとりあえずスマホで顔を隠した写真を使った、何も来ない。退会したい。でも、金がもったいない。何をしているんだろう? そもそもメッセージが来たところで何と返信していいのかわからない。女性と話した経験が圧倒的に少ない。こんなものを使うべきではなかった。劣等感がプツプツ刺激されるばかりじゃないか。


 社会は普通の人間しか生きられない場所なので、昔は普通の人間になりたいと思っていたことがあったけれど、いまは人間にすらなりたくない。ただ花に生まれ変わりたい。夏風にそよられ、昆虫の羽を休めを受け入れ、無邪気に触れる少女の手に揺られるのだ。空は青くて高い。土は柔らかくて豊潤な栄養素を含んでいる。近くには水辺、きらきらと陽光を反射している。俺は花だ。花になるのだ。


 最果タヒさんの『きみの言い訳は最高の芸術』というエッセイ集を読んでいる。共感できるところが多く、微妙な考え方の差異もある。面白い。ほっとするし、自己肯定できるし、やっぱり人は一人ずつ違うのだなと思える。みんなの考え方の基礎がこの人と同じだといいのに。みんなちがってみんないいなんて、いや、そりゃそうなんだけど、だったら社会を廃止してくれとか、そんなこといってみたりして……。


 ぐちゃぐちゃとした日記だ。一貫性をもってまとめるなら、働きたくねぇな~ってことです。

3.1.11 傷ついた原石ほど 

 

 

 頭に巣くった蛆虫が脳みそをむさぼり食っていて、自分が好きだったものや大事にしていた記憶や感受性を死に至らしめ、目の前の事象に対する感情をとことん薄ら寒いものにしている。自分が何を感じ取っているか、一々自分に対して確認しないことには、上手く自分という存在の骨格を認識できない。


 SNSやポルノ動画に対する反射的興奮に溺れきっている内に心まで電子的な信号に従うようになったのかもしれない。ボクハナニヲカンジテイルノダロウ? ナニヲカンガエテイルノダロウ? 誰かに教えて欲しいが、僕のことをよく知っている人間などこの土地にはいない。孤独に慣れきった人間の末路。青い春はとことん惨めで、大人になってからもまともになれない憂鬱を引き摺っている。とっととリタイアした気持ちで一杯だが、生きていかなければならないという呪いから解放される術を持たない。


 夜よ明けるなと祈りを抱きながら鬼束ちひろを聴いている。『HYSTERIA』正直に言って、彼女の存在は懐かしいものになりつつある。月光、私とワルツを、茨の海……そうした楽曲たちが深くこの皮膚に刻まれた時期もあった。その深い絶望の暗さ、深海に沈んでいくような諦観の心地よさ。そうしたものに囚われ、強く心を惹かれた時期もあった。傷つき、歪に、淀み、そうして輝く原石の美しさ。彼女の歌声の奥底に輝くその光に救われるようにして。


 こうした歌手が未だにアルバムを出し続け、歌い続けてくれているということが一つの救済そのものだ、と僕は思った。ここに収められた楽曲たちはやはり深く傷つき、もがきながらも手探りで生きている人にしか歌えないものばかりだ。喉元を締められているかのような息苦しさ、生そのものが耐えがたいほど辛く、暗い。それでも何かに縋りながら、何かを求めながら生きていく。致死的な腫瘍が日々凝り固まり、大きくなるのを自覚しながらも、生きていかなければならないこの地獄を、歌に希望を託し、生きている。あるいは、僕は自己投影に過ぎるかもしれない。でも、僕はずっと前からその印象に救われ続けている。何もない部屋の床に効かない薬ばかりが散らばり、時には自傷を示唆する刃物がだらりと落ちる腕の傍にある。瓶のコークと、宵を迎える斜陽。彼女の無感動な視線の先には一つのアルバムがあり、手持ち無沙汰にその歌詞をなぞる。


 夜が更け、開けたままのカーテンから朝日が部屋に満ちるとき、とりあえず生き延びている自分を発見するのだ。

3.1.28 仄暗く美しい雨粒に閉じ込められた世界で 

 その世界観の何が僕にそれほどヒットしたのかわからないけれど、何だかことあるごとに聞き直したい音声作品というものがある。藍月なくるさんの『Merry Happy END』。目覚めは病室で、やがては半同棲的に物語は進んでいく。病的な蒼さが窓辺から差し込む光によって神聖さを獲得しているかのようなジャケットが印象的だ。


 始まりはまったくの初対面にもかかわらず、彼女との距離は近い。同い年という一点によって打ち砕け、病室でのお世話を引き受け、退院してまでも自然な形で寄り添っている。元々は事故に遭いそうになっていた彼女を助けたのがこの聞き手という設定だ。少し踏み込みすぎのような面倒見の良さ。神経質なまでに聞き手の体調を気遣い、恩返しという名目で部屋まで付いてきて、あらゆる雑事に身を費やす。盲目的にすら感じる献身ぶりは、実は彼女の「性質」に関わっていて……というのがこの作品の肝だ。


 オルゴールの代わりとして赤ちゃんに聴かせても安全なくらい健全な音声作品なので、安眠的効用は溢れるほどある。彼女の声は優しく、静かで、心地が良い。絶えず降り続く雨音が二人だけの空間を包み込むように鳴っている。疲れているけれどすぐには眠れそうにないというときには何となくこの作品を聴くことが多い。柔らかな膜の中に含まれていく。ゆったりと瞼が重くなり、気が付いたときには僕はどこにもいない。現実が遠く追いやられ、自己完結的な夢の中に落ちていく。


 何度聞いても聞き飽きないのは、彼女の声の中にうっすらと潜む仄暗さを感じるからだろう。二人だけの空間がいとも自然に感じられ、リラックスしてきたときに、ふと小さな針の痛みを皮膚に感じるみたいに彼女の焦燥や依存的執着心が垣間見える。その度に事態のちょっとした異常さ(親しくもない相手と一つ屋根の下にいる事実)を自覚させられるが、結局のところ「まぁ、どうでもいいか」という気持ちになってしまう。こんなに可愛く献身的な子にいろいろお世話してもらえているという事実以上に何が必要だろう? 病んで歪んでいく空間すら愛おしい。堕ちて、絆され、どっぷりと深みに嵌まっていく。依存され、執着され、自由を束縛されようとも、一向に構わない。ずぶずぶと生温い泥沼の中に一緒に沈んでいきたい。


 むしろ、そうした希死想念、破滅願望があまりに温かく心地良いが故のこの眠気なのかもしれない。普段隠している(隠さなければならない)その祈りが彼女の声によって表出され、聞き惚れてしまうのだ。手を握り、彼女の爪で手首を切り裂かれ、ぬめった血の滴りで僕と彼女の生を繋ぐ。そうやって二人笑って死ねるなら幸せだな、なんてことを思ってしまう(気軽に重苦しくもなくね)。