3.5.19 二次創作をやってきたこと

 今となってはまったく稼働していないツイッターで、時々(本当に時々)Pixcvに上げた二次創作物経由で僕をフォローしてくれる人がいる。こういうのは留保なしに嬉しい。まったく呟いていないし、監視用アカウントとしてひっそり空気に漂う塵のようにしてしか存在していないのに、それでも僕をフォローするという選択をしてくれた。Twitterが下手で、現実同様コミュニケーションもできないわけだけど、外さないでくれればいいなと、心の中では思っている。


 たまにPixcvの自分のアカウントを見に行くし、それで評価が上がっていたりすると心がほっと温かくなりさえする。あ、生きてるって感じがする(大げさだろうか)。もう二次創作物をあげなくなってずいぶん経つ。出来の悪いものも多い。それでも誰かが僕の創作物を掘り下げて点数やいいねといった形で釣り上げてくれたとき以上の喜びに勝るものは、やはりないんじゃないかという気がする。古いものではきっと7年前のものもあるんじゃないだろうか。そこに誰かの足跡がついたのを見たとき、あぁ、僕があのとき書いたものはまだ死んでいないんだなと、何だか独り感慨深く、存在の証のようなものをもらえたような気になる。


 創作に対する自信がなくなったとき、Twitterエゴサをして、恐れ多い賞賛を胸の内で何度も反芻し、ぎゅっと心に抱き留める(いいねやリツイートはできないから)。二次創作は不思議だ。その全ては他者のものといって差し支えないのに、僕が書いたものは僕というフィルターを通し、濾過され、独自の色に染まる。他者の創作物であるのにもかかわらず、二次創作は自由で、制限がない。そこに僕という物語があれば、他者の創作した物語にも調和し――それが優れた言葉であればあるほど――鏡面に光が反射するように輝き出す。空の色、たゆたう波、砂場の貝殻、白いワンピースと麦わら帽子。イメージ、イメージ、イメージ……彼彼女がどこにいても、何をしていても問題ない。僕の物語が何を求めているかが問題なのだ。


 何だかよくわからない話になってしまったけど、二次創作をやっていて良かったということを伝えたかっただけ。また何か二次創作をしたいという気持ちはある。今度はもっとライトに、肩の力を抜いて書けるようなものを。いつも長くなってしまうから。



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3.2.20 二日酔いと盗作

 

 

 気分は最悪。みっともない弱音を披露して、仕事を人質に取るような言い方をして退勤した。帰ってすぐ眠れそうにもなかったから、寒空の下を歩き回って酒を飲んでいた。二日酔い。死にたくなっているけど、まぁ、とりあえず生きている。


 窓の外をぼんやり眺めていた。何も考えられない。考えようとすると頭が痛くなった。いつも致死的なものに憧れている。希死想念。空は青い。2月にしては温かい方だ。冬服をベースにした春物のジャケットはチョイスがあっていない。少し寒い。


 僕にとってのヨルシカの1位は『だから僕は音楽を止めた』だった。それは『盗作』が発売されてからも動かなかった。確かに青い。でも、遠ざかる空の遙かな蒼の色だ。切なく、物悲しく、幼く、そしてどうしようもなく青かった。


 いつからか、『盗作』の方に心惹かれるようになった。初めはそれほどでもなかった。あまりにコンセプト・アルバム感が強かったし、ジャケットも微妙だった。ボーカルの声音におっ、となりはしたが、その頃の僕はあまりに『だから僕は音楽を止めた』に執着していた。気付かなかった。この音楽のあまりの美しさに。


 宝石箱のような美しさ。嫉妬や憎しみ、劣等感や心のあっけない移ろいさえも。これが音の美しさなのか、物語の美しさなのかはわからない。あふれ出した色とりどりの宝石がなだれ込むように心の脆い部分に入ってくる。溶け、爛れ、鮮烈な残滓なって消える。もう僕の中にはない何か。歳月の果てしなさや、社会の決まり事を呑み込んだことによって消えてしまった何か。これはそこを刺激する。きっとこんなに美しかったものなんだ。幻想かもしれない。でも、それは確かにぼくの心の中にもあったものだから。追悼くらいする権利はある。


 二日酔いは引かない。もう大分引き返せない。生活は続いていく。絶え間ない苦しみをくるんだまま。なりたくなかった自分を引き摺って、舗装されていない道に轍を刻んでいく。

3.1.25 シンデレラ・ストーリーに立ち会うことについて

 

 

 昔、といってもたかだか4.5年前だけど、BSスペシャルでテイラー・スウィフトのライブを観たことがある。確か3枚目のアルバム『Speak Now』が出た頃で、僕自身もよく聴いていた。『Mine』,『Mean』,『Ours』……それぞれの曲の完成度はもちろん、アルバムとして聴き通すことで万華鏡のようにきらきらとしたストーリーを見せてくれる良いアルバムだった。時間的余裕のある大学生の頃で、よくそのアルバムを聴きながら試験勉強や二次創作のBGMなんかにしていた。そんなときだったから、そのライブは録画までして何度もリピートしていたのを覚えている。

 テイラー・スウィフトが一曲歌い終えて、観衆の歓声に応えるときの瞳が焼き付いている。学生の頃いじめられてどん底に落ち、それでも這い上がる気持ちを忘れなかった少女がいま大きなステージに立って、自分にだけ向けられた歓声を全身で受け止めている。鳴り止まない歓声。一人一人が彼女の名前を叫ぶ。スポットライトは消えず、観客席の照明はまるで光の海みたいに煌めいていた。テイラー・スウィフトは信じられないと言ったような表情で立ち尽くし、ただその奇跡を見つめている。


 どうしてこんなことを思い出したかというと、ラジオでLISAの曲が流れたからだった。鬼滅の刃の大ヒットの影響で、彼女の人気もうなぎ登りとなった。数々のテレビ出演、ラジオのゲスト、そして紅白出場。もちろんアニソン界では知らない人はいないくらいの歌手だったし、元々の実力があってこそのこの現状だ。だけど、アニソンという境界を越えてここまでの人気者になるとなると、やはり実力以上の何かが必要になってくるのだろう。作品の善し悪し、時期的な要因もあるだろうし、運という要素だって理不尽なくらいある。いまここにある現実は、そうした様々な因果関係が絡み合って生まれるものだ。


 LISAが声優をやっていた頃から知っている身とすると、まるでシンデレラ・ストーリーみたいだな、と思う。僕はLISAの大ファンというわけではなかったけど、きっとLISA推しの人たちは狂喜乱舞なんだろうな、あるいは切なさや寂しさを感じているのだろうか、何か違うという感じになって離れるのだろうか。推し専の心は計り知れない。世の中で一番でかい感情を持っている人たちだ。そういう意味では、普通のミュージシャンとは少し血色の違った歓声になりそうだけど。

紅蓮華

紅蓮華

  • LiSA
  • アニメ
  • ¥255

3.1.25 アニメ声優が結婚してもなんとも思わないけれど

 とかく人の性癖に振り回されやすい現代において、自分だけの確固たる性癖を持ち続けるのは極めて難しい時代になった。昔はロリコンを自負していればとりあえず一目置かれた。ロリコン、貧乳、足フェチ……しかし、いまでは群雄割拠たる性癖の猛者共に溢れ、容易くそんなことを口にしようものなら鼻で笑われ踏み潰しかねられない畏怖がある。リョナも、スカトロもいまでは生温い。極北に住む狩人にしか嗅ぎ分けられない性癖というものが、この世の中にはあるのだ。

 そんな世の中にあって、僕は一ノ瀬りとさん(オタク特有のさん付け)と出会えた僥倖に感謝するべきだろう。もちろん、性癖なんて星の数ほどあって良い。何が悪くて何が正しいというわけでもない。しかし、僕は『添い寝フレンドと行く温泉旅行ーおもちゃえっちつきー』を一聴して救われた。そうか、僕はこういうのが好きなのか。僕をワンコと呼び、からかいがちに距離を詰めてきて、安らぎを求めるように腕に巻き付いてくる。小鳥が啄むようなキス音に、息を潜めた熱い吐息、二人っきりの世界で彼女はケラケラと笑い、そして友達以上の微笑みを忍ばせる。萌え、劣情、滾り、癒し。宇宙が生まれ、そして彼女の瞳に留まる。彼女の胸の奥で高鳴る鼓動が全てで、それ以外は空疎な模造品。楽しく、むず痒く、嬉しく、この身体に触れる手が温かい……現実とは、大、違いだ。
 これは『添い寝フレンドシリーズ』の第二作目にあたるわけだが、そのどちらとも違って健全パートがある。彼女(めぐ)から温泉旅行のお誘いが来て、出発から帰宅まで彼女と二人っきりで過ごす。二人は付き合っているわけではない。確実な好意がありながらも彼女は核心的なことは言わないし(好きって言った後に嘘だよとか言うし……)、この関係性から先のことは望んでいないようにも思える。だからこそのこの空間なのか。リラックスしていて、自然体で、水の音や鳥の声が良きBGMになっている。
 僕はこれをよく寝る前に聴いている。非健全パートまで通せたことはない。構成も、各パートの時間もちょうど良い。そしてもちろん、一ノ瀬りとさんの甘く、魅惑的な声音。本当に隣にいてくれているかのような一体感と安心感。耳元で囁く安眠ボイス。ワーンコッのコッが本当に好き。結婚して欲しい。いつまでも側にいて欲しい。
 アニメ声優が結婚してもなんとも思わないけど、一ノ瀬りとさんが結婚したら感情が三分の一はなくなると思う。そして光を遮った布団の闇の中で、繰り返し「ワーンコッ」の声を聴き続けるのだ。

3.1.12 ただただ適当に生きていたいだけの人生

 鶏口となるも牛後となるなかれとはよく言ったもので、身の丈に合わない仕事を引き受け、ただただ消耗していく人生なら、世間の地位や優劣など気にせず自分のやれることをするべきだと悟った。俺にできないことで他人のできることなんて星の数ほどある。とっととネクタイを脱ぎ捨て、セールで買ったスーツなんかと一緒にゴミ焼却炉にぶちこみたい気持ちで一杯である。


 地獄とはそれでも続く人生のことだ。自分の社会不適合生を知り、ずるずると堕ちていく人間性を自覚しながらも爪を引っかける壁も見付けられず落下のスピードを緩められない。ただただ楽をしたい。他人の迷惑など気にかける余裕もない。自分のことですらまともにできないのに、他人の仕事なんてできるはずもない。


 こんなときに思い出すのは不思議なもので、『月曜日のたわわ』の冒頭シーンだったりする。なぜそんなものが頭に残っているのだろう。主人公?のサラリーマンがプラットフォームで独りため息をつくモノローグ。「他人に迷惑をかけないようにするより、ただただ自分が楽になれる道を選びたい」


 彼は月曜日の憂鬱を払拭してくれる笑顔に出会えたわけだが、こちらはただ人嫌いが加速していく。そういうやつはかっこつけているだけだと。山奥でFAX一枚で済む仕事を選ぶか、そうでなければ何か秀でた才能でもあるのかと。ないんだろ? 有吉弘行が言っていた。じゃあ、何とかやっていくしかないじゃない。


 そうなんだけどさ……。俺にはできないんだよ。頑張ろうという気もなく、自分で自分の惨めさを慰める日々。こういうのを屑というんだろうな。何とかしたいなんて本当の意味では思っていない。ただただ適当にやり過ごし、好きなだけ寝て、好きなだけ怠惰を貪りたいだけ。俺に出来るのは牛の糞となって社会の肥やしになるくらいだ。あいつよりはましだからと、見下すのにちょうど良い物体。


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3.5.21 そういう映画 

 

 

 

 雨が降りだした。例年よりもいくらか早い梅雨入りだ。今日も今日とて人の悪意に敏感で、ふて腐れきった心を抱えて生きている。馬鹿で無垢で何も知らないままでいたい。世間から汚されることを厭う箱入り娘みたいに、お座敷から出たことのない真っ白な両足を抱えて、ただぼんやりと外の雨を眺めていたい。


 どういうわけか、『どうしようもない恋の唄』という映画を思い出している。アマプラでやっていたものをただ眺めるように見ていただけだが(感受性が擦り切れていると自覚していたから、そのときはあまり真剣に入り込めている感じはしなかった)、このぼんやりと闇の靄がわだかまる金曜日の夜に思い出すにはちょうどいいという気がする。筋としては簡単で、妻に捨てられた男が風俗嬢と同棲するようになり、「普通」のレールから外れていくという物語だ。天真爛漫な表情、あまりに無防備な心、危ういまでの無垢さ。それらに男は惹かれていくわけだけど、同時にそれが厄介事を持ち込む種にもなる。


 こういう映画は見たときはそうでもないと思ったけれど、いつの間にか僕という人間を形成する一つの記憶になっていたりする。上手く説明できる感情ではない。何かはっきりとした結末があるわけじゃないし、幸不幸が重要なお話でもない。一つ一つ場面を説明することができても、説明することによって自分の伝えたい感情から少しずつ遠ざかってしまうような気になる。説明したくないのだ。コントと同じ。面白いと思ったことが重要なのであって、何が面白かったかを説明することはそれほど大切なことではない。


 僕が思い出すのはその風俗嬢(ヒナ)の子供っぽい仕草や笑い方。幼稚だけど人を傷つけない物言い。ただ愛する人を純粋に貪欲に守ろうとする意志、ただその人のためになりたいという想い、眩いほどの優しさ、あるいは、悲しくなるほど優しくあろうともがいている輝き。最後に二人は街を抜け出し(様々な事情で二人はほとんど満身創痍の状態になっている)、初めて立ち寄る土地の日の出に立ち会う。高架橋の上、まるで見えない未来として立ちはだかるような朝日にへたりこみながらも、二人は互いの身体を持ち寄り、寄り添いながら言葉を囁く。
 最後に何と囁いたのか覚えていないところが僕の適当なところだ。何とかなるよとか、そんな感じだったかな……? 僕はその映画を断片的にというより、空気の塊みたいに思い出す。ピンクや、紫に染まった空気の塊の、温度や湿度、感触を思い出すみたいに。このシーン、このシーンというより、その映画の総体がぼんやりとした不確かな映像を伴いながら思い出される。生きること、どうしようもないこと、どうしようもなく生きるということ。生きることって一筋縄ではいかないんだわ……。でもそれを伝えることはもっと難しい。それを物語にすること、物語でしか受け取れない感傷。この映画は僕にとって「そういう映画」だった。
 
 ※いまは『メランコリック』を見ている。これも似たような映画っぽい。年々、映画を見ることに対して時間がかかるようになってしまっている。


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3.5.17 この汚れた魂と共に生きていくということ 

 

 

 自分の心が汚くなっていくのが自覚できていて、マール・セロー『極北』のいうところの『歳月の梯子を上るどこかの段階で私は、自分の純真な、最良の部分を失ってしまったのだ』状態になっている。汚い思考や殺意的な怨嗟がとぐろまいて、嫉妬や劣等感やコンプレックスで自らを汚染している。どうしてこうなるのだろう? 気にしまいといても、自分で自分を汚すことを止められない。脳が破壊されている。AVの見過ぎ、孤独のやり過ぎ、斜に構えた物の見方が青黴になって歪に爛れ始めている。


 この年になると自分で自分を慰めるようなことはできなくなっていて、もうさすがにこの年で誰とも付き合ったこともなく生きているのってマズいんだろうな、その時点で人間として欠陥品なんだろうな、と思う。誰かを好きになりたいというより、そういう他人から見た自分を意識して、コンプレックスを払拭したいがためにそういう経験が欲しいと思ってしまっている。多分、ずっと一人でいたい人間なんだと思う。一日誰とも会わず、一生誰とも深く関わらずにいられればそれでいいんだと思う。でも社会的な生き物である以上それは避けられなくて、絶対に避けられなくて、自己承認欲求や自己顕示欲からも逃げられない。僕はこれからも他人の目を意識していくだろうし、そのたびに勝手に傷つくのだろう。


 ※『他人のために生きられない。さよなら以外全部ゴミ。人を呪う歌が描きたい。すぐに誰かを殺せればいいぜ』
 また夏が来る。あの開放的な夏の陽気と、心を焼き尽くすような灼熱の日射しが。自分自身の諦観すらもあぶり出し、憂鬱が影に青く滲むあの夏が。
 
 ※ヨルシカ『盗作』・・・あまりに美しい夏の結晶のようなアルバム。こんな風に劣等感やコンプレックスを夏の映像に昇華できるのなら、この汚れた魂を抱えて生きるのも悪くないと思ってしまう。