3.5.17 この汚れた魂と共に生きていくということ 

 

 

 自分の心が汚くなっていくのが自覚できていて、マール・セロー『極北』のいうところの『歳月の梯子を上るどこかの段階で私は、自分の純真な、最良の部分を失ってしまったのだ』状態になっている。汚い思考や殺意的な怨嗟がとぐろまいて、嫉妬や劣等感やコンプレックスで自らを汚染している。どうしてこうなるのだろう? 気にしまいといても、自分で自分を汚すことを止められない。脳が破壊されている。AVの見過ぎ、孤独のやり過ぎ、斜に構えた物の見方が青黴になって歪に爛れ始めている。


 この年になると自分で自分を慰めるようなことはできなくなっていて、もうさすがにこの年で誰とも付き合ったこともなく生きているのってマズいんだろうな、その時点で人間として欠陥品なんだろうな、と思う。誰かを好きになりたいというより、そういう他人から見た自分を意識して、コンプレックスを払拭したいがためにそういう経験が欲しいと思ってしまっている。多分、ずっと一人でいたい人間なんだと思う。一日誰とも会わず、一生誰とも深く関わらずにいられればそれでいいんだと思う。でも社会的な生き物である以上それは避けられなくて、絶対に避けられなくて、自己承認欲求や自己顕示欲からも逃げられない。僕はこれからも他人の目を意識していくだろうし、そのたびに勝手に傷つくのだろう。


 ※『他人のために生きられない。さよなら以外全部ゴミ。人を呪う歌が描きたい。すぐに誰かを殺せればいいぜ』
 また夏が来る。あの開放的な夏の陽気と、心を焼き尽くすような灼熱の日射しが。自分自身の諦観すらもあぶり出し、憂鬱が影に青く滲むあの夏が。
 
 ※ヨルシカ『盗作』・・・あまりに美しい夏の結晶のようなアルバム。こんな風に劣等感やコンプレックスを夏の映像に昇華できるのなら、この汚れた魂を抱えて生きるのも悪くないと思ってしまう。