3.5.25 少女ミックの終わらざるを得ない思春期

 

 

 

 『心は孤独な狩人』では聾唖(耳が不自由で口が効けない)の男、シンガーが中心となり(人々のシンボル的存在となり)物語が進行していく。彼の周りにいる人々は彼に留保のない好意を抱くようになり、拠り所として、自分の心をそっくり預けられる相手として、彼の存在を必要としていく。彼が聾唖で、礼儀正しく、慎み深い微笑みを絶やさないことが自分の心を上手く制御できない――あるいは、過渡期にある人々にとってはとても大切なことだった。これは三人称小説だが、各章でポイントとなる登場人物の視点で語られていく。混沌とした思想と機関銃のような舌をもったジェイク、心の欠落を抱えるブラノン、気高い使命感を持ちながら闇の時代の濃霧を振り払えないコープランド医師、それから非常に微妙な年代を通過しようとしている夢見がちな少女ミック。彼らはスポンジのように自分の言葉を吸収してくれるシンガーに語りかける。あるいはただ傍にいて、彼と同じ空間にいることで安らぎを得る。好意以上の何か。純粋な人間愛。ただ一人の理解者のように彼らはシンガーのことを信頼し、心の奥深くで彼の存在を強く、しかし穏やかに求めているが、最後に彼はとある事情で自殺してしまう(このとある事情については長くなってしまうので書き記せない。といっても、それがこの小説のテーマにあるわけではない)。


 それは多くの失意をもたらし、どうしようもない生活の撤退や変化が訪れることになる。ジェイクはその街を逃げるようにして離れるようになる。ブラノンは自分の普遍性を揺るがされることになるし、コープランド医師は自分のなすべき事をなせずに(後悔を引き摺り)田舎に居を移すことになる。そして少女は少女ではなくなる。


 ミックはシンガーが自殺する直前、重大な決意を下したばかりだった。その夏、彼女は通っている学校を中退して仕事をすることになったのだ。そこには様々な事情があり、家庭は困窮し、楽に夢を見ているだけの子供ではいられなくなっていた。しかし、決して「働かされた」わけではない。求人がふとして湧いた泉のように家族会議に上がり、その中で彼女がその仕事に最も適した人材だった。彼女はある意味でそれを待ち受けていたし、あるいは労働なんて知らぬ少女のままでもいられた。その場の空気や導きがなかったとは言えないが、決して強制されたわけではない。しかし、彼女の口は開いていた。口にしてから退けなくなっただけだ。彼女は迷っていた。迷っていたけれど、働かないという選択肢はなくなっていた。自分の面目のためにも。もちろん、少しは家族の未来のためという建前もある。『ねぇ、聞いて――これから仕事に就くことになると思うの。それをあなたはどう思う? 今学校をドロップアウトして仕事に就くのって、良い考えだと思う? それは正しいことなのかしら?』


 彼女が最後に頼ったのはシンガーだった。彼は頷いた。それから数日して、シンガーが自殺した。


 彼女は仕事帰りにシンガーが勤めていた宝飾店の前を通る。うろうろとして、深夜営業のカフェに入りビールとチョコレート・サンダーを頼む。ストッキングに伝線が入っていたことに気がつき、店員に話しかけられないように爪の手入れに集中している振りをする。そして彼女は行き当たる。最近「内側の部屋」に入れていないことに。そこには勝手気ままに鳴り響く自分だけの音楽があった。彼女の心を鼓舞し、わくわくさせ、彩りを与えていたメロディーたち。彼女はピアノを習いたかった。オーケストラを指揮したかった。いつかは大きな街に出て自分だけの音楽を鳴らしているのだと思っていた。いま、それは鳴らない。いや、いまは鳴らないだけだと思う。私が描いていた夢、未来、その実現のために動くこと。それは意味のあることだと、いままでのことも意味がちゃんとある。だからオーケー、問題ない。私は大丈夫。


 その店員――ブラノンはその姿を見てすでに彼女が少女ではなくなっていることを知る。変化はすでに訪れ、それまでそこにあった何かは過ぎ去ってしまったことを。


 ミックを主人公として読むのであれば、この小説は少し切ない。成長という言葉で片付けられない哀しみややるせなさがそこにはあり、かつて自分にもあったもの、あるいは遠くに押しやられた心象風景を想起させる。忘れているわけではないのに、すでにそこにはない。手を伸ばせば届く距離にあるのに掴むことのできないもの。私が飛ばしたタンポポの種子は導き手を風に変え、いつの間にか私の視界を外れている。