2.12.24 ミス・チョと亀と僕について(書評のような何か)

 文学にしろ音楽にしろ、韓国の芸術にはどこかしらグローバルな繋がりを感じさせる作品が多い。『優しい暴力の時代』に収められた表記の作品も、その中の一つだった。主人公の男性は亀と猫のぬいぐるみが置かれたベッドの上で40歳の誕生日を迎え、静かに涙を流す。

 始まりは平凡で、彼はどこにでもいる男性として描写されている。39歳にして結婚はしていないが、特に不幸も感じていない。「高級住居型シルバーコミュニティ」という養老院で働き、人並みの苦労を背負い、人並み程度に勤勉な働きをしている。穏やかな導入だ。雲行きの怪しさは感じられない。しかし、このたった一ページの描写の間に、このストーリーは心の隙間が欲しがっている共感をもたらしてくれるかもしれないという予感がある。


 職場で一本の電話が入り、物語は緩やかに進んでいく。着信は「ミス・チョ女史」。彼女は主人公の父の元愛人という微妙な立場の女性で、ときどき話をする程度の間柄だ。『どうして、フェイスブックで僕を探そうと思ったんですか?』僕が好きな一文がある。この女性とそんな間柄になったきっかけを探ったやり取りだ。


『後で僕がそう聞いたとき、チョ・ウンジャ女史は相変わらず優しい笑顔でこう言った。
 二十一世紀じゃないの』


 仕事中なこともあって彼は電話には出られず、あらゆる業務に奔走しているうちにすっかり忘れてしまう。ちょうど仕事が終わって着替えをしている最中、彼の携帯にメールが届く。『お知らせします』そこで、ミス・チョが亡くなったことを知る。


 ストーリーはひどく穏やかに、優しい朝の光に照らされていくように進んでいく。親しいかどうかもわからない女性の死。だが、彼女は彼に対していつも親切だったし、彼も彼女に対しては他の人には打ち明けられないようなことも話をしていた。その一つが猫のぬいぐるみについてだ。一人暮らしで猫の飼えない彼は代わりにぬいぐるみを買い、ベッドで一緒に寝ている。常識から一歩踏み外した会話。共鳴と羨望。不思議と絡み合う糸、和やかに共有される秘密。ミス・チョと彼が互いの心に寄り添っていた存在であることがわかる。とても自然に、洗練された描写レスな手法によって。


 彼女は彼に残していったものがあった。『岩』という名前の亀。地球上で最も長く生き残るアルダブラゾウガメという種類の亀だった。彼は彼女の残したメモを元に彼を育て、糞をさせるために浴槽を広くする。フンをする存在、食べる存在、鳴く存在、死ぬ存在、生き残る存在の亀。彼は亀の名前を呼ぶ。彼はそろそろ自分の誕生日が来ることに気がつく。


 『日曜の遅い朝、ベッドに横になって野菜サラダを食べながら、岩とシャクシャク(猫のぬいぐるみ)の背中を代わる代わる撫でていると、僕と世界が絶対に繋がっていなくてはならない必要はないという気がする』

 

 


 ミス・チョとの優しい記憶を通じて、彼は自分自身と、あるいは世界と折り合いを付ける。四十歳を迎えた朝、彼は涙を流す。ひどく久方ぶりで、言葉の届かない場所に向けた涙を。